形式参考:simaruko.work
・お地蔵さんと呼ばれた子ども
・長女であること
・地獄について考えていた
・とにかくクールな奴
・初めての挫折
・一年間休学、タイへ逃亡
①エリート家族の豪邸へ
②超ビンボー家族のもとへ
③ラオス国境付近のド田舎へ
・森の中で…
・就活をやめる
・サイモンとの出会い
・精神的に生きること
・環境問題へのアプローチ
・漫画・文章を書き始める
①本を出版すること
②農のある暮らし
③漫画・文章で収入を得る
幼少期

1994年12月14日・誕。
子どもの頃、大人たちに「お地蔵さん」と呼ばれていた。とにかく笑わない子どもだったらしい。いつも何かを深刻に考えている子で、基本的にしゃべらない子どもだった(今でもわりに無口だけれど、幼少期は今以上に無口だった)。
それもそのはず、わたしは幼い頃のかなりの期間、生きることは「絶望」だと思っていた。4歳のある瞬間に「わたしは地獄に落ちるんだ」という確信が芽生えて以降、小学3年生になるまでその考えは消えることはなく、「生きていたってなにも楽しくない、だって私は死んだら地獄に落ちるから。」とずっと思っていた。
幼な心にとってこれは相当な負荷だった。この胸の内を打ち明けられたのは妹だけで、「ふーちゃんはね、死んだら地獄に落ちちゃうんだー…」、とある日告白した。すると妹には「ふーん、そっかぁ。」とだけ言われて、私のこどくは始まった。その日のことをよく覚えてる。あの庭の感じ、あの空気とか。

さて、幼少期で一番古い記憶といえば、2歳か3歳のとき。夕飯時ごはんを食べながらアニメ『キューティー・ハニー』を見ていたらお父さんにめちゃくちゃ怒られたという記憶です。お父さんはすごい剣幕で怒鳴っていて、横でお母さんが「そんなに怒んなくてもいいじゃん」と言っていた。そしてこれが、記憶の限りで私がお父さんに怒られた最初で最後の出来事となった。
2人の妹を持ったわたしは、その後十数年間、典型的な「長女」タイプとして振る舞うこととなる。親に怒られることは絶対にしない。学校でもいい子でいる。これは、私がそういう性質だったというよりも、「長女」であることの方が大きく作用していたように思います。どんなときも「お利口さん」でいて、私にとってそれは我を通すよりもずっと楽なことだった。

そうこうしているうちに父と母の仲が険悪になっていった。私が小学3年生のときに両親は離婚し、父方に引き取られた私たち姉妹3人は父親と祖父母と暮らすことになった。

両親の離婚が具体的に私たち姉妹の成長にどう影響したかはよく分からない。まあ今となっては、逆に良かったのかもしれないとも思う。

みんな元気そうだし(笑)
小学校時代
さて小学校で私は「ごくフツーの子」でした。空気のように静かにひっそりと、ただ可愛く存在している女の子。しかし「私は地獄に落ちるのだ」「死ぬのって怖いな」ということが小学校時代の私の心の大半を占めていたから、どことなく暗かった。それ以外にはまあ、友だち付き合いとかにも普通に心を悩ましていたと思う。とにかくこの時期のもので笑っている写真が極端に少ない。暗い。暗かった。

中学校時代
中学生になる頃には「地獄に落ちるのだ」という観念的な悩みからは解放されていて、代わりに、「なんかいろいろ、だるいな」という姿勢だけが残った。頑張っても陽気にはなれなかったし、モテるわけでもない、地味な女の子だったと思う。いつもどこか冷めていて、悪い意味で「クール」な子だった。


「無難なイイ子ちゃん」であることは続いていた。しかし今見るとすごいな。たぶん私の全盛期はここで終わっている。
中学2年生のあるとき、クラスの男子生徒がちょっとエッチな漫画を描いたことがあった。漫画には私も登場し、なにか「博士」なる人に捕まって色々実験される話だったけど、読ませてもらって、「へー、すごーい。絵こまか。」と思った。(よく考えると本人に読ませるあの子もなかなかだな笑)。またある時、黒板係であった私は翌日の時間表を書き間違えて、当日教室に現れなかった私たちに音楽の先生がキレてその日の授業をボイコットされるという事件があったけど、「なにもあんなに怒んなくてもいいのに。」と思っただけで、私はクラスメイトに対して謝罪の意を表さなかった。
これらのことは、大人になってからふと思い出しては「っああ!!あんときぃ!!!//////」と後悔や恥辱の念に駆られる。とにかく当時の私は、現実に起きた出来事がどういう意味を持っていて、それによって自分や周りの人がどういう気持ちになるのかを理解するのにすごーく時間がかかった(今でもわりとそうだけど)。自分の心の機微にとても鈍感だった。
いろんなことにこだわりがなくて、修学旅行の班決めのときには「私どこでもいいです。余ったところに入れてください。」と裏で先生に申し出て、先生に「新井はほんとに達観してるなぁ」と言われた。周りからもよく「クール」と言われた。でも私は決して達観してたわけじゃないしクールなわけでもない。「いかに荒波立てずに早く時間が過ぎるのを待つか」ということに専念していただけで、それ以上の思想は何も持っていなかった。脳みそがふにゃふにゃで、人間が何も出来上がっていなかった。

良くも悪くも、無関心、だったのである。いろんなことに関して。

手紙をくれた彼女と近くの河原で「便器」を作ることにはいやに専念していた。あたしの青春。
部活動はいつも「めんどくさい」と思っていた。それなりにがんばっていたとは思うけど、基本的には稽古をいかに楽にやり過ごすかということを考えていた。厳しい先生に積極的に掛かり稽古を頼んでいる選手を見ては、「すっご。ありえない…」と驚愕していた。「苦しめば苦しむほど成長するのが法則なのか!」と、当時、剣道のおかげで曲がった努力観を植え付けられた。

高校時代
高校は地元の進学校に入学した。私はここで大きな挫折を味わうこととなる。各学校の優等生が集まるその学校には、勉強も青春もスポーツも卒なく「できてしまう」生徒がゴロゴロ存在していた。それまで私は特に努力しなくても「人並み」にはいろんなことをこなせていたけど、いくら努力したところで勝てない人が世の中に山ほどいることを知って、そのことに激しく打ちのめされた。

険しい顔である。私は私のままじゃダメだ!普通に生きているだけでは人より劣っている。上手くやらなければ、もっと頑張らなければ…!!

「このままじゃいられない」と思い立ち、所属していた剣道部を退部。2年生の終わりと同時に高校を休学し、ある留学支援機関に応募してタイに一年間留学した。ほんとはオーストラリアに行きたかったのだけど英語の試験の点数が足りなかった。でもそんなことはどうでもよかった。私はとにかくあの高校から逃げたくて、新しい自分になりたかった。当初「タイってどこ?」くらいの心持ちでいて、「こんにちは」「ありがとう」の単語だけを覚えてタイヘ渡った。
タイ留学時代
①エリート家族の豪邸へ
私を最初に受け入れてくれたのは、中国系のお金持ち家族だった。お父さんは医者、お母さんは教師、娘2人は医学部を目指していて、みんな英語がペラペラのエリート家族だった。しかし当のお父さんの体調が崩れてしまって、私はここを3週間で去った。

②超ビンボー家族のもとへ
事情が分からないままに連れて行かれたのは、中流市民の住む街中にある、ボロボロの家だった。トタン屋根で、雨が降ると凄い轟音がし、ところどころ雨漏りしていた。一日中、不特定多数の人間がこの家を出入りしていた。とても裕福な暮らしとは言えなかったけど、賑やかでめちゃくちゃなこの生活が私は結構好きだった。お姉さんが付ききりでタイ語を教えてくれた。「フキの食べるご飯がないー!!」と言って、弟くんが市場に走って行ってお米を買ってきてくれた。(あとで知ったのだけど、彼は弟じゃなくて“妹”、だった。性に寛容な国、タイである)。結局この家で2度もお金を盗まれたことによって一ヶ月で去ることになったけど、楽しい時間だったな。

③ラオス国境付近のド田舎へ
やっと本格的にホストが決まって落ち着けると思ったら、そこは田舎も田舎、道路は土で、水牛がそこら辺を歩いているような、典型的なタイの農村だった。言葉の訛りもすごかった。しかしファミリーはとても温かく私を受け入れてくれた。学校は約50km圏内の生徒が一挙に集まる、生徒数3,000人超のマンモス校で、私はここで大騒ぎしながら、日本では体験したことのない種類の友情を育んだ。みんないつも一緒にいて、話して、ふざけて、罵倒しあって食べて飲んで、ときにぶつかり合ってお互い泣いて喧嘩したりもした。タイの気候と若さによって、みんな生命が炸裂していた。感情がむき出しのまま突っ走っていた。






タイ人というのは、とにかくテキトーだ。基本、笑っている。授業を平気でサボる。先生たちもよく授業をサボって職員室でお茶していた。週に一度体育の時間があったけど、体育の授業を受けたのは半年間でたった一回だった。ほんとうに!それ以外は東屋(あずまや)でみんなとお喋りして、頭上にぶら下がってるスターフルーツを採って食べたりして過ごしていた。先生にしろ生徒にしろ、彼らには深刻なところが極端に少なかった。簡単に人に懐き、平気で人を罵倒する。音楽が鳴ればすぐ踊り出す。彼らと一年間過ごす中で、「ああ、人生に対して深刻になるのはやめよう」と何度思ったことか。

そして帰国。一つ下の学年に入った。そこでのちに一緒にヨーロッパ旅に出ることとなる『アンちゃん』と出会った!
よく放課後2人でガストに行って、受験勉強から逃避してたよね。
タイに行ってきたものの私は具体的に夢や目標が見つかったわけではなく、また、タイ仕込みの楽観性を持ってしまったゆえに心はなんともフラフラとしていた。そのままなんとなーく選んだ栃木県の宇都宮大学に滑り込みで合格、晴れて大学生となった。専攻は農学部の森林科を選んだが、この選択に特に志はなく、二次試験が数学だけだったという理由で選んだ。
大学時代

入学後に気付いたのだけど、森林科とは割とガチめの「林業」を学ぶ学科だった!入学早々、森林科の同期38名はまとめてマイクロバスに詰め込まれ、キャンパスから1時間離れた栃木のド田舎の演習林に泊まり込みで連行された。
最初の授業は、「鎌研ぎ」だった。一人一本の鎌を携えて山を登り、一日中、森林の下草刈りをした。夕方近くになると近くの山で雷が鳴り出し、「鎌が避雷針になっちゃって危ないから今日の実習は終わり。」とか物騒なことを言われ、私たちはビクビクしながら山を下りる。そんな具合に、4年間の多くの時間を森の中で過ごすこととなった。




リアルにこんな日々だった。ちなみに飛んでいるのは教授である。

器械体操部に入っていたけど、しょうもない骨折の仕方をして3年生の秋に辞めている。
私には「林業」への適性がないとハッキリと判断したことと、そしてそれ以前に、タイに行った経験が後押しして、大学3年生の終わりに就活を辞める決心をした。タイに行ったことで「人生はすべて自分の選択次第だ」ということを体感で知っていて、だからあのとき就活を辞めたのはさして大きなハードルではなかったように感じる。
こうして「就活をやめたとある女子の物語」が始まる。
就活・ニート・フリーター時代(エッセイ漫画より)
大学3年時に就活を辞め、就職が決まらないまま大学を卒業。ニート・フリーター期を経て、あることをきっかけに農業を志し、国内数カ所でWWOOF(ウーフ:ファームステイ)をする。翌年には、ヨーロッパへ3カ月間のWWOOF旅に出る。
【第1話】人生なんて(県庁へインターンシップに)
【第2話】フツーな私は就活をやめた(わずかな就活期を経て、就活を辞めることを決意)
【第3話】人生はRPG?(就活を辞めたことへの葛藤・周りとの温度差)
【第4話】好きなもののみつけかた(大学生活を放棄してやりたいこと探し)
【第5話】私はどーする?(大学卒業後、実家に戻りニートになる。バイトを2日で辞める)
【第6話】生き方は選べる!(日本国内をWWOOF旅)
【第7話】お金って何?(旅の資金を貯めるため派遣で工場に→旅館でリゾートバイト)
【第8話】アイルランドのおとぼけ家族(ヨーロッパへWWOOF旅)
3ヶ月間のヨーロッパ滞在
特にアイルランドでのファームステイの経験は、今の私を形作る大きなものとなった。お金とか、正しさとか、そういうものを抜きにした「生きる」ということ。サイモンは、そのヒントは「精神的に生きること」にあると教えてくれた。私たちはロボットじゃなくて、心がある。でも、いつか死んでしまう、川の流れのような人生だから、フキ、精神的に生きなさい、それは簡単なことだよ、と言ってくれた。
【第9話】この国はあなたの国(1/2)
【第9話】この国はあなたの国(2/2)





帰国後
精神的に生きることと地球を大切にすることは私の中で繋がっている。なので帰国後、環境問題へのアプローチと、漫画や文章を書くことを始めた。道端のゴミを拾ったり畑をやったりイラストを書いたりしては、こんなことして意味があるのかなぁ?と思うことはある。そして私は今後どんな道を歩くのだろう?とか。でも「精神的に」生きることが私にとっての目的だから、べつにそこに意味がなくたって、正解じゃなくたって、いいやと思います。今後もこんな感じでやりたいことをやろうかなーと思っています。
そして些細な活動がこのようにだれかに見つけてもらえる私は、つくづく幸運だと思う。がんばろう。




これからの展望
私には夢があります。大きく3つ。
①本を出版すること
いつか私の描いたショート漫画なりエッセイ漫画を本にして出版するのが目標です。べつに電子書籍でもいいし、このままnoteに上げ続けててもいいんだけど、本が好きという、個人的な愛着ゆえの目標です。
②農のある暮らし
畑をやり続けて、ゆくゆくは年間自給率50%くらいは達成したい。メジャーな野菜に加えてイチゴ、カモミールやシソ、山椒とか、いろんなものを育てて自分で手づくりのおかずや飲みものを作っていたい。もっと欲を言うと、どこかに土地を買って、そこに安く建てられる小さな家(ドームハウスやコンテナハウス)を建てて、隣で畑をやりつつ、こじんまりと暮らしながらその生活を発信していきたい。いずれソーラーパネルを買って自家発電も。


↑理想。(アニメ『ミッドナイト・ゴスペル』より)
③漫画・文章で収入を得る
仕事に関しては、ストレスなくやれることをバイトでやっていくスタンスはしばらく続けながら(今は家庭教師と塾講師を掛け持ちしている)、ゆくゆくはバイトをしなくてもいいくらいの収入を自分の手で生み出すことが目標です。細分化してみると、
・ブログで月5万
・web漫画連載月3万
・雑誌寄稿2万
・印税2万
・noteからの収入月2万
・その他1万
うっげー。一個一個見るとすごいことのように思うのに、これでやっと月15万なんて驚きだ。現実味も計画性もない目標だけど、いい。書いて損することはないから堂々と書いておく。
質問コーナー

ー 後悔はあるか?選ばなかった「選択肢」への未練について。
正直、大学の選択については一抹の後悔を感じています。あそこでしか学べない何かがあったとは思うけど、農学部じゃなくて、美大に行ってみたかったな、とか。そもそも大学は「行かなければいけない」ものでもないのに、なぜほかの選択肢が見出せなかったんだろう?とか。
ここではない世界線。自分が選ばなかったものを選んだ自分が、いまよりすてきな自分だったらどうしよう、と、たまに葛藤します。
あれかこれか、そのいずれかであることを選ぶのは、その選択肢を肯定するということ。
ーサルトル
よくこの言葉を思い出します。君の「行為」こそが「君」である、それ以外のところに君はない!というサルトル的実存主義は、ある意味冷酷だけど勇気の出てくる思想です。よぉし!!!
ー 人生を変えた作品は?

漫画を描きたいと思うようになったのはアニメ『アドベンチャー・タイム』の影響ですが、私を変え、これからも何度も変えてゆくだろうと思わされるのは、同監督による作品『ミッドナイト・ゴスペル』です。

このアニメは終始「瞑想」と「輪廻転生」のことを言っています。幼い頃から、死にたくないとか地獄とかグチャグチャ考えていた私に、この作品は『いま、ここに在ること。』『それが悟りだ』と教えてくれました。魂の救済アニメ。何度も言いますがおススメです。ほんとに。(Netflixで全話見られます)
私が思うに、苦しむのは川の流れに抵抗した時なのよ。流れは止まらないわ。その流れを避けて川岸で留まろうとすると苦しむことになる。
川の流れに身を任せると気付けるわ。愛と呼ばれるものが自分を助けてくれると。経験してみないと気づけない“慈悲”ね。
その慈悲は何かと聞かれたりするけど、私が思いつく答えは“現実”ね。現実には慈悲の性質がある。

「『現実』こそが生きていることの『慈悲』だ」、というセリフを聞いた時は、感動して体温上がってしまった。
ー 今まで彼氏は何人いたことがある?
0人です。うん、つまり…0ということです。(現実こそが慈悲、ってほんと?)
これについては語るべきところがたくさんありますがっ、簡潔に説明すると、仮にあなたが私の立場でこの人生を生き、その一瞬一瞬を正しいと思われる選択を下して歩んできたならば、こういう結果になります。やってみれば分かります。そんなに複雑な話ではありません。(ふざけているね笑)
しかし真剣な話、私は長い間、人間は「ひとり」で完成することこそが美しいと思っていました。人の気持ちは移ろうのだから、もっと普遍的なものを探さなければ私たちに救いはないぞ!とも思っていました。「性」をできる限り避けて、そこからいちばん遠いところで生きてきたのが私です(かと言って、女であることが嫌だとは思ったことはありません)。
…しかし最近、その考え方も変わり始めています。つまり「性」への向き合い方が。なんというか…、私たちは生きている限り「身体」であり続けるし、男か女かを決定づけるのは遺伝子的な「偶然」でしかないから、無理に避けたり拒絶するものでもないんじゃないの、と思い始めています。概念的ですみません。いつかこのことも改めて書きたいと思います。
さいごに
最後まで読んでいただきありがとうございました。プロフィール、と言われると、今わたしは26歳の時点でそれを書くしかないのだけれど、いつだって常に更新されゆく人生を生きてるんだなーとしみじみ感じました。昔のことを思い出しても、この記憶、合ってんのかなあ?とか。
自分のことでさえ記憶も思想も変わっていくのなら、普遍的なものなんてほとんどないですね。…と、哲学めいたことをゆっちゃうのですが、そういえば脳科学者の養老孟司先生も「脳や認識なんて信用できないもので、それを自分と思うな。」、と言っていました。
きっと、これからも私の脳みそは更新されて続けていき、今ここで書いていることもいつかの私から見たらちゃんちゃらおかしい別人みたいな存在なわけで。でも、だからこそ、いま書かねばいつか跡形もなく消えてしまう想いがたくさんあって、それは目に見えない。そういう想いの断片を切り取るために、私はブログを書いています。
ということで、これからも当ブログ『雨やどりをしよう。』をよろしくお願いします!
おわり
こんにちは。プロフィール全部読ませて頂きました。うーん、たくさん感想はあるんですがとにかく素直に素敵な人生を歩んでいるなー…と感じました。若くしていろんな経験を経て、それを自分の糧にして生きているFukiさんに羨望の気持ちもあります。
対話や傾聴相手も募集してるみたいなので、いつか会ってゆっくり話してみたい気持ちもあるんですが如何せん極度の人見知りなので…ハア(-o-;)とりあえずは一読書として、これからもブログや漫画楽しみにしております(^^)
naokiさん、こんばんは。羨望だなんて滅相もない。プロフィールを書いてみて、人生の要所を切り取って並べると誰だって何かを為したかのように表せるんだと学びました(笑)私は実家暮らしで日々その辺に寝っ転がっている彼氏いない歴=年齢の弱小ブログ書いてるただのフリーターでしかなく、これも紛れもない事実なんですよトホホ。とはいえコメントありがとうございました!喜んでお会いしますよ、ぜひいつでもお声かけください^ ^