なきもの・仮想現実・境界線ついて想う夏、

 

 

鈍感になることが生きやすくなることだから、この世の中は狂っている。

 

たとえばいま、私の視線の先にはペットショップがあるのだけど、ショーケースの中の子犬は、売られなかったらどこにいくの?たとえば横の人が食べているサンドイッチはどこから来たの?

 

目の前をカートを押してゆっくり歩いていったよぼよぼのお爺さんは、数年後にはこの世にいるだろうか?

 

一つ一つの事象が、精神を落ち込ませるのに十分なことだ。でも私はそんなことで本気で悩めるほどに脆くはないし繊細でもない。私は普通に生きていくのに十分に「鈍感」だ。だから、私は私の鈍感さによって生きていられてるといえる。私はなにかを「見えない」ことによって正常でいられる。

 

 

 

2年前くらいに会ったある女性。彼女は育児放棄・幼児虐待についてひどく腹を立てていた。「命をなんだと思っているんだ」と彼女は言って、私もそう思う。全くそう思う。けれど、その女性は、普段買っている卵がどのようにして作られたのか知ってか知らないでか、日本の養鶏場で毎日のようにオスのひよこが生後まもなくして「処分」されていることには憤りを感じていなかった。私はそのことについて、なぜだろう?と不思議に思った。正直な気持ち、虐待される子どもを救うことと、シュレッダーで切り刻まれるひよこを救うことと、どうして前者の方が絶対的に重要と言えるだろう?と思った。でも言えなかった。

 

私はその出来事から、私は26歳にもなってまだ「命の大小」について結論が出ていないのだと気付かされた。

 

ほんとうは誰も、この世についての真実を教えてくれない。本当のところの「真実」を。なのに世界では今この瞬間にもベルトコンベアでひよこが運ばれているし牛の頭にショットガンが打ち付けられているし、カルガモの赤ちゃんが道路を渡ろうとして車に轢かれていたりして、それは紛れもない「現実」だから、私はこの世界に生きていることに折り合いがつかなくなって狂いそうになる。ふと、たまに、頭がおかしくなりそうになる。

 

なのにどうして正気を保っていられるか?私はもう大人だから、賢く生きる方法を知っている。そんなものは「ないもの」とすることだ。「現実」として捉えるものに境界線を設けることだ。

 

バーチャルだなぁと思う。AIやホログラム、3D技術が発展するのを待たなくとも私たちはとっくに仮想現実を生きている。私たちは誇張でも比喩でもなく、今この瞬間もバーチャルな世界を生きている。

 

 

 

7月はじめに、長野県内で行われた『禅と表現』について考えるワークショップに参加してきた。それぞれ分野を異にした表現に携わる8人が参加して、それぞれが自分の「表現」について発表し合ったのだけど、そのうちの一人、舞台俳優である五十嵐さんという女性の発表が印象に残っている。

 

五十嵐さんは、舞台に上がる前の「準備」の様子を再現してくれた。

 

演技前、舞台に上がる。棒立ちになってまっすぐ前を見る。そこで五十嵐さんはまず意識を宇宙にまで上げて、銀河、太陽系、地球、日本、と視点をだんだん下ろしてくるのをイメージするとのこと。長野県、飯山市の、文化交流館にいる自分。私はいま舞台に上がっていて、観客席を見ている。でも背後にはパイプ椅子が積み重なっていて、そうか、私は背後にこれがあることを忘れたくない。壁がある。どんな質感だろう、触ってみよう。ポスターがある。気になるから読んでおこう。

 

五十嵐さん曰く、演技前にはこういうふうにして、一旦「空間と友だちになる」そうだ。で、全部を把握する。知っておく。私がここにいること。周りに何があるかということ。演技と関係ないものにまで意識を配っておく、この作業がとても大切だと言う。

 

『なきもの』を生みたくない。この空間に、『なきもの』があると『嘘』が生まれる。

 

と彼女は言った。その言葉が忘れられない。

 

私はすごく感銘を受けた。で、その日から日記を詳細につけることにした。その日、見たことやったこと。感じたことをぜんぶ書く。それは具体的であるほどいい。「なきもの」を生まないために。すべてを記憶しておくために、すべてを書こうと思った。

 

でも何日か続けてみて、じきに私は狂うだろうと思った。

 

 

 

ぜんぶを「あるもの」とするか?

 

 

たとえばある夜のこと。外を散歩していて、スーパーの駐車場の灯りに吸い寄せられて集まってきた蛾がたくさんいた。一匹の蛾がちょうど横の道路の真ん中に降りて、私は「そんなところにいたら車に轢かれちゃう」と思った。そしたらちょうど車が来て、「あの車が通り過ぎたらあの蛾を端に寄せてやろう」と思った。「この車が蛾を踏みませんように、踏みませんように」と願いながら蛾を見つめて、車が通り過ぎるのを待った。ぷちっ、と音を立てて、車はその蛾を踏み潰して通り過ぎて行った。

 

こんなことは、気が狂うのに十分な出来事だと思った。こんなことまで日記に書き始めたら、私は確実におかしくなると思った。

 

私の身の回りにあるもの。たとえば横にあるコップ、いす、枕やカーテン。ほこり、紙くず、虫の死骸。「あるもの」が増えていって、それがこの部屋の壁を越えて、尺度を超えて、通りの木の一本一本、道路のアスファルト、その上の蟻の一匹、石ころ一つ、砂の一粒。踏み潰された蛾の意識にまで及んだら、、、それはその人の気をおかしくさせるだろう。

 

だから仮想現実の話に戻る。私たちの多くは世界に「なきもの」あるいは「他者」を作り出して、自分の皮膚一枚を隔ててその内側を「自分」、外側を「他者」と区別して生きている。これはたぶん精神心理学とかでは基礎の話。

 

この境界線をどこに置くかというのが精神にとって重要で、たとえば境界線が肉体の「内側」、例えば脳みその中にできてしまうと、いわゆる多重人格が生まれてしまったり、頭の中で「だれかの声」が聞こえてしまう症状になったりするらしい。自分の脳なのにその内部に境界線があると、同じ脳内で「他人」が生まれてしまうのだ。

このように、自分と他者を隔てる境界線が、つまり「自己」がごく局所に限られると色々精神に弊害があるらしい。自分の体が「自分のものではない」と思えて排除したくなったり。だから、精神病の治療の一つにはその「境界線」を広げていく作業があるとのこと。

 

では、境界線は「広がれば広がるほどいい?」よく瞑想とか悟りの話では、究極に達すると「世界と自分が一体化する」とか言うのをよく聞くので、「自分が宇宙の一部になる」とか、「自分が広がること」がさも高尚なことのように言われているけれど、、果たしてそうだろうか?

 

たしか前、ある動画で見た気がする。「境界線が自分の皮膚を超えて外界にまで広がってしまった人」、つまり自分と外の世界との区別がつかない状態になった人について、解剖学者の養老孟司先生はこう言っていた。

 

「そんな人はとっくに精神病院に入っています」

 

そう、私は、車に潰された蛾が「私じゃない」から生きていけるのだ。横にいる人の悲しみが「私のものではない」から生きていけるのだ。シュレッダーで切り刻まれるひよこが「私じゃない」からやっと正気を保ってられるのだ。つまり、そのひよこ一羽一羽さえも「自分」になった日には、ただちに死ねてしまうと思う。それは、肉体的に実害がなくても。簡単なことだと思う。その一線は。

 

境界線。境界線。境界線について思う夏。Fukiさんはこんなことをずっとしゃべってて、何か悩んでいるのだろうか?とお思いの方もいるかもしれませんが、大丈夫です。私はいま、昼間のカフェのソファに座って、すました顔でこれを書いています。昼間の正常な脳波でもってこれを考えているのですから、これはごくありきたりな人間のありきたりな思いつきの一つです。

 

まあ、みんながみんな狂っていて、「なきもの」があって、見えない境界線がそこら中にある、それぞれが境界線の内側で生きている、私たちはとっくにバーチャルな世界で生きてるんだから、「正常」なことなんて何一つないとは思うけど。私たちは「自分でない」ものがあるから生きていける。「なきもの」があるから生きていける。

 

だから人はこんなに孤独なのだろうか。「なきもの」がたくさんあるから。

 

「なきもの」が世界を占めて、私たちがごく狭められたバーチャルに生きるとしたら、それは寂しいことだと思うし、わたしはやっぱり、血まみれのひよこを「なきもの」にはしたくないから、、自分の頭がおかしくならない程度に皮膚に境界線を張って、世界を「あるもの」で満たしていきたい。けれど正気を保つその一線が、脆いから怖い。

 

 

世界と折り合いがついていない男の子について。

 

泣き虫しょうたのこと

 

3件のコメント

お疲れ様です。非常にFukiさんらしい、興味深い内容でした。バーチャルとリアルの境界線。

僕は最近特に人間アレルギーが酷くなってきまして愛想笑い、空笑いで社会生活をのらりくらり生き抜いてます。リアルではないまさにバーチャル世界を生きている感覚。あ、妻とは仲良いです。けれど、それさえも心のどこかで「夫婦」という役柄を演じているだけなんじゃないかという気がするんですね。それは夫婦関係の中に「なきもの」が点在しているせいでしょうか。独りにはなりたくないのに、独りになりたい。頭が完全に狂う前に何処かの自然に触れつつ、ひっそりと自給自足生活して生きて、いずれ死にたい。そういう思考が延々とぐるぐる廻ってる。

『はたしてこの社会にどれほど正常な部分が残っていると君は思うかね?全てが異常なのならば、自分が直感で感じたこと、それが自分にとって唯一の正解だ』
※デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション5巻より。

しょうたくんとれんげちゃんの漫画良かったです。漫画、いろいろ楽しいですね(^^)では。

naokiさんこんばんは^ ^ また素晴らしい名言をありがとうございます。以前naokiさんがオススメしてくれた、浅野いにおさんの漫画読みましたよ!(『海辺の女の子』、でしたっけ?)ほーう、漫画はこんなにも絵で語れるものなのか!と学びました。そしてあの書き込みの量。私も漫画を描いていると言っていいものか、と疑念に駆られるほどでしたね笑

こんばんは。「うみべ」読んだんですね!あの漫画の絵、特に背景はちょっと尋常ではないレベルですね^^;しかしあの描き込みのせいで連載とんでもなく遅くなって不安になるんですが。笑

いつか漫画論、語り合いましょう(^○^)

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