この世を肯定していこう

 

 

この世は生きづらさで満ち満ちている。

不条理が山ほどある。生きてることを肯定できない場面が多々ある。

 

たとえば私は気候変動をはじめとした環境問題に危機感をもっているのだが、勉強すればするほど感じるのは、「人間とはいかに地球にとって害なのか」ということで。

 

つきつめると、環境問題を叫ぶより私1人がひっそりとこの世からいなくなるのが一番環境に良いのではないか、と思えてくるほどで、そう、私はどうしても「生きていること」が肯定できない。作られた家で、作られた電子機器に囲まれて、電気を使って世界にCO2を増やすしかできない。何かの命を犠牲にして生きるしかない。

 

 

戦争映画『この世界の片隅に』とかを見ると、戦時中、主人公すずさんの懸命に生きる姿に心打たれる。

ああ美しい、と思うと同時に感じるのはある種の「劣等感」。

だって完成され成熟した今の世の中には、すずさんたちが立ち向かったような困難もなければ、がむしゃらに生きていく目的も特にない。ただぼんやりと生きられてしまうこの世の中で、「生きる」に懸命になっている人は輝かしく見える。

 

 

つまり今の世の中、生きることを「美しい」ことだと思うのは難しい、と、私はそう思ってるんですが、、、みなさんはいかにしてお過ごしですか。

 

 

だからこそ、こんな無意味なような、そして罪深いような人生を、「それでいい」、「しかし生きる、ただ生きる、それが美しいんだよ」って言ってくれる価値観こそ、これからの世の中に必要とされると思います。無意味さの中に美を見出す。アメリカンドリームとか、経済が成長し続けたかつての日本人が見た「夢」とは、ぜんぜん違った方向の価値観です。それは「夢」とか「野望」とかの輝かしさより、もっと静かな音がする美しさのように思います。無意味さとか、絶望の先の美学。

 

 

 

この世の肯定、ただ生きることの肯定、と言って私が思い出すのは、2本の映画です。

一つは、ジブリ映画『崖の上のポニョ』。ポニョは個人的に、ジブリ映画の中でいちばん好きな作品です。

 

あらすじは割愛しますが、世界の秩序が崩れ、終末にも思えたかのような世界で、主人公そうすけと魚の女の子ポニョの、2人の「好き」という気持ちが「生きる理由」になり得たという話。

ぐちゃぐちゃの世界で、2人の愛だけが、世界の破滅を乗り越えて新しい世界の創生にも値する「生きる力」だったという話。

 

宮崎駿監督は多くの作品で人間の愚かさを描き、自然との共生はできるのか、という問いを我々に投げかけてくれているが、本作『崖の上のポニョ』では一転、「そんなもの知るか。ポニョが好き、そうすけが好き、それだけで、生きてゆく充分な理由になる、力になる」という気概を感じさせられる、あれはものすごく純朴な生きるパワーに溢れた映画です。

 

 

 

そしてもう一つの映画というのは新海誠監督作品『天気の子』です。

 

この映画がいかに「生きることの肯定」を描いているかというのは以前ブログに書いた通りで、

『天気の子』感想。この映画は「命」の賛歌。生きることへの強い「肯定」。

要するに、主人公の2人は世界を守ることよりも自分たちの命を守ることを選んだわけで、それでいいのだ!、と言ってくれたこの映画には私自身も救われました。

 

 

 

私たちが生きていく術は、生きていることを肯定することだ。

 

 

 

最近、日本に住むチェコ人のお友達が言っていました。

「ニホンは、新しい建物ばかりで、イヤになりマス。作られた世界で、自分がニセモノみたいに感じられてキモチワルイ。ヨーロッパが恋しいです。古い建物がたくさんあり、美しいデス。」と。

 

知るかい、そんなん。だからってなんなんだ。そこに生きてる私たちは、肯定するしかない!目の前の景色が気持ち悪くたっていい、嫌いだっていい、ただ「そこに生きている私たち」を肯定する、ここで生きてゆく道はそれだ。それが、美しいことでしょう。

 

 

新しい時代だなぁっていつも思ってます。生きてることに意味付けしなければ生きづらいこの世の中。そこで、「ただ生きること」を肯定することは、新しい「美しさ」であり、強さなんだって、思います。

 

 

 

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