26歳女のある日の手記。だれかとなにかが分かち合えるというのなら

 

 

なんにもしたくない。進めない。自分の想いが分からない。なにもかもめちゃくちゃ。そんな時、私はよくカフェに行って、思うことをつらつらとノートに書きます。浮かんだことをそのままに、正直に、何の思惑も介さずに。

 

 

思っていることを「言語化」するのはこれ、治療であって、みなさんにオススメしたい方法です。参考までに、そんな時、私はどういうことを書いているのかシェアします。

 

 

頭の中のぼやぼやが、言語化されていく様子が見られるでしょうか?理路整然としていない、「言葉」が「言葉」のままで人と共鳴することができるのでしょうか?だれかとなにかが分かち合えるというのなら。。しかし読み返してみるとなんか中二病くさい。まあ、本当に思っていることだから、しょうがないです。

 

 

 

 

◼️(以下ノートより)↓

 

2/10(水)

次。次に行きたい。場所じゃない。心。精神。行い。次のところに行きたい。この衝動はなんだろう。この違和感。ここじゃない、わけじゃない。でも、次に行きたい。それは「新しい」場所?うん、新しい、かもしれない。違う自分になりたい。「違う」?というか、「次」の自分。最近さらに誰かに「認められたい」、その想像を頻繁にするようになったのは何でだろう?だれかに「すごい」って言われたいのかな、なんか、とにかくものすごく“孤独”、なんだよな。精神的に…?安心感。だれかと分かち合うなにかがほしい。Aさん(友人)と会って、何か通じ合える片鱗が見えたのは、うれしかった、というかショックだったなぁ。こういう可能性が世界には満ちていることに。めんどくさいというか。やりきれないというか。ひとりじゃない、いつだって、ひとりではないんだけど、なにか孤独だ、ものすごく。身動きが取れないほどに。私じゃない、他の何かと溶け合いたい衝動。何か大きなものに身を委ねたい。外部。融合。混沌。“筒”でありたい、私は、ただエネルギーを介すだけの筒でありたい。仲介者。「私」じゃない、重きを置くものは。それは、宇宙、とか、真理とゆうやつ、なのかもしれない。歩きたい。歩いて歩いて歩いて歩いて、ぼーっとしてたい。時間を費やしたいのか、からっぽになりたいのか。なんでこんな、疲れてるんだろう。疲れてるというより、負けている。何か、重圧に。そんなものないのにね。重圧、それは、正しさ、とか、正解、とか?てゆーか何もしたくないなぁ。

 

望むもの、は何?何がしたいどうなりたい?ああとても、「自分」でありたい。そして同時に変動的でありたい。筒だもの。笑いたくもないし話したくもない。黙っていたい。でも言葉は美しい。「私」がなくなりそうだ。そこに、執着がなくなりそうで、それはなんか、さみしいことのような。でもその先に何が待ってるんだろう?誰がいるというのだろう?なんかとても神聖な花畑に行きたい。花畑じゃないや、川。死にたいわけではない。夜空。天国に近い場所は、そこかしらにある。天国にいる動物はそこかしらに飛んでいるのに、この世界の川はごみだらけだから嫌。それを混沌と呼ぶ。ここには天国も俗世も混じっているから、たまにみんな頭がおかしくなる。泣きたいなあ。泣くのは、どこまでも「自分」であることなのに、泣きたい。この世にいる限り、何かと対になってでしか救われないからバカバカしくなる。男女。友人。あるいは神さまと。ただひとりで完結することはできないのか。それだけで、救われて、完成することはできないのか。そのルートが知りたい。そのトンネルのありかを知りたい。一人でいたいわけじゃない、でも、外部は不変であることはないから、自分が自分だけで「完結」する方法を知りたい。それは芸術?ああだから人は絵を描いたり詩を書いたりするのかな?ただ、より普遍的なものと繋がっていたいだけ。てゆーか私はもしかして性と戦ってるのか?女でありたくないし男になりたくもある。

 

折り合いがつかない。誰かとしゃべっていたって、つまんないことしか言えないし。みんな戦っているのかな?そういうものと。でも誰かと何かを共有したい気持ちはある。でもその不完全さに、頭がしびれるよー。日本語にも種類がある。まあ大丈夫、なにかがわかちあえるというのなら。生の淵を意図的に歩くことはできるのか。神は横にいる。今も。ああ私はただ精神的でいたいだけなんだ。だけど行く場所がないんだってば。あるのかもしれないけど。変わりたい、次の場所へ行きたい、変化、変化、変化、変化。だれかが導いてくれるわけでもない。自分が望むものも分からない。さみしいんだよな、本心を分かち合える人がいないから、さみしくて、不安なんだな。ああそういうことか。じゃ願おう。

 

 

 

2件のコメント

小説家の保坂和志さんが、どれだけ言葉を尽くしても書き表せないことを書きたいと言っていたのを思い出しました。
最近、文章の他に、気になる団地猫がいるのですが、ソイツの絵でも描いてみようかと思っていたのをやっぱりやめて、ソイツをみたときについ小声で発してしまう擬音語を録音して、それを作品にしてしまおうかと思っています。
小説家でも画家でもない「擬音家」というジャンルを勝手につくるのも面白いというか、自分なりに普遍を捉えようとすれば、既存のジャンルに収めるのは難しいかもしれませんね。

大三郎さんこんにちは。
言葉は所詮モザイクだから、並べても並べてもその解像度は真実には近づかないのが悲しいところです。
それに比べ猫や動物は存在だけで完成しているからすごいですね。私たちも本当はそうなのかもしれないけど。。
擬音家とは面白いですね。言葉でもない音楽でもない。
ぜひ新たな表現の形に挑んで行ってください^ ^

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