春がきた。
畑の地ごしらえに取り掛かった。
うっはー、めんどくさーーーい!!
去年一年やってみて痛いほど分かったのだけど、私は畑作業には向いていない。農業というものは季節や時間でやらなければいけないことが決まっていて、しかし私は「時間通りに」何かをやるということがすごく苦手だ。
朝起きて、畑に水をやる。雑草を取る。
このことがすごーーーーく難しい。めんどくさい。めんどくさいめんどくさい。朝決まった時間に畑に行って10分間手入れするよりも、それがいかにめんどくさいかの文章を机の前に3時間座って書いている方がよっぽど楽なくらいに。
しかし。今年も春がやってきた。いい加減に動かなければならない。
はぁ〜〜めんどくさい。めんどくさすぎて作業着も着ないままに畑に向かう。
スコップ持ち、軍手もせずに、さて。
まずは雑草を抜く。
ふう、飽きた。
いいや、雑草取りは終わり。まだいっぱい残ってるけど笑
雑草は畑に放置。ここから固くなった土を起こして、耕す作業。
こんなふうに。
犬、見にくる。
15分後。ふぅ。終わり終わり。もう終わり。ほんとはここに石灰を撒いて攪拌しなきゃいけないけど(土をアルカリ性にするため)、めんどくさいから続きは明日やる。絶対やる。たぶん。
(やったよ。翌3/15追記)
めんどくさい。向いてない。なのになぜ私が自家菜園をやるかというと、「いざとなったら私は土と種さえあれば食糧を作ることができる」という自信を手に入れるためである。
もちろん第一に環境問題へのアプローチという側面がある。宇宙から帰還した秋山豊寛さんが地球に帰ってきて農業を始めた、という話を見て感激したことがあるし、遠いところで作られた野菜を運んでくるより個人個人が家庭で野菜を栽培した方が合理的だろうという考えがある。しかし2番目の動機は、「お金を介さなくても別に食べ物くらい手にできる」自分を叶えたいがためだ。
食べ物を手に入れるのに、必ずお金を介さなければいけないという状況がずっと不思議だった。生きることすなわち第一に食べることなのに、それを満たすためにまず食べ物から遠いところに力を注がなければいけないのはなんでだろう?
じゃあ自分で作ればいいじゃん。というわけで。
しかし自家菜園が、食糧確保のために最も効率がいい方法だとは思わない。畑をやるのには、まず時間がいる。手間がいる。場所もいる。苗を買うのにだってお金がかかるし、一方スーパーに行けば季節に関わらず新鮮な野菜がいつでも安価で手に入るわけで。そう、作るよりも買ってしまった方がずっと簡単なのだ。
しかし「お金」を持たざる者は食うべからず、というこの社会の風潮に反旗を翻したい、という気持ちがある。
私は去年、これだけのじゃがいもを収穫した。そして、それだけのじゃがいもを収穫するのに必要だったものは、
じゃがいも、たった6個である(うち1個は駅前で拾ったやつだから笑、実質5個である)。そして今年は、去年の収穫分のじゃがいもを種芋にして栽培するつもりだ。つまり、次収穫するじゃがいもは、まったくのゼロ円で手にしたものとなる!!!
私が手に入れたい「生きる自信」とは、まさにこのことである。
低収入のくせに?実家暮らしのくせに?辛酸舐めたことのない、社会を知らないあまちゃんのくせに?とか言ってくる人に対して(言ってくる人はいないけど笑)
「うるさい。いいもんねーだ。だって、あたしは畑さえあれば、じゃがいもを作れるもんねー。」
と胸を張れる理由がほしいのだ。生きる力がないとは、誰にも言わせたくないのだ。
そして畑仕事は、お金よりも「時間」と「体力」を必要とする。しかし生きている限り、時間と体力は半無限に湧いて出てくるリソースだ。お金は湧いてこない。それを味方につける!農業というのは「社会」であるところの「お金」を介さずに、「太陽」と「水」と「時間」と「力」を使う、とても神聖で原始的な仕事だ。
ほら、すてき。農作業。
まあ、こういう理屈を並べに並べて、手を動かすことはいつだって「めんどくさーーーーーい」けれど、「しょーがないなー」とかぶつぶつ言いながら私は今年も畑に立ちます。
畑作業をしていると、近所の幼なじみの友だちが遊びにきて、味噌汁のポタージュをお裾分けしてくれた。
コメントを残す