円周率は割り切れないのに
なぜ円は閉じている様に
見えるのでしょう。
ブログ:月夜見(ツクヨミ)-円周率より
この言葉に出会った一昨日は、一日中ボーッとしてしまった。
前回の記事でもご紹介した霊能師の月夜見(ツクヨミ)先生という方は、霊とか魂の世界をじつに「物理的かつ数学的に」解釈している方で、最近YouTubeで知った。
この世は「空(くう)」です。この世は嘘でできています。
月夜見先生はこのことをよく主張し、その訳を数学や量子力学を用いて説明している。
この世は「無」でも「有」でもない、「空(くう)」である。
今日はこのことについて、月夜見先生のブログをもとに私が解釈したものを書こうと思います。
今回説明することは私の個人的な解釈が多分に含まれていますので、見当違いがあるところは悪しからず(^^;
◼️円周率
まず円について。円の面積は知られているように、半径×半径×円周率で算出することができます。
見れば分かるように、円は閉じられていて、その面積は「ただひとつ」に定められるはず。なのに円周率は割り切れない数である。限りなく正解に近い面積は算出されるのだけど、それは割り切ることのできない数である。切り捨てられるその「誤差」の中には、無限に数字が広がってしまうことになって、なぜ?円はこんなにも「閉じている」ように見えるのに。
月夜見先生はこれを、なぜでしょう?と言っている。
また彼女はこのことを違う言葉でも言っている。
◼️0と1
0から1の間には
無限に数があるのに
なぜ0は1になるのでしょうか。ブログ:月夜見(ツクヨミ)-円周率より
まず。私たちは0と1の違いを明確に認識できます。0の次は1になる。0に1を足せば1になる。しかし実は、0と1の間には「0.5」があります。そして0.5と1の間には0.75があるし、0.75と1の間には0.875がある。
つまり0はどこまで1に近づいてもその間には無限に数がある。
「そりゃ数はどこまでも細かくできるから、0と1の間に無限の数があるのは当たり前だろう!」とお思いかもしれません。それはその通りです。しかしここで言いたいのは、“0はどれだけ1に近づいても、それが1に「接する」ことは「あり得ない」”ということです。だから、0と1を区別する境界は実のところ「存在しない」。
しかし私たちは0と1を明確に「違うものだ」と言えてしまう。それはなぜかと言うと、本来「ない」0と1の間の境界を、「ある」と錯覚しているから、と月夜見先生は言っている。へーー。
また彼女はこの世の成り立ちについて原子の構造を用いても説明しています。
◼️物質はすべて「空洞」である
例えばいま目の前に見えている「机」「いす」、「紙」だとか「石」。これら物質を構成する単位は「原子」であることは知られています。次にこの原子一つ一つを見ていくと、この中身は「空洞」です。そしてその空洞の周りを電子が運動していて、その電子の運動を観察して私たちは「物」と認識しているわけです。
※これについては以下の記事が分かりやすいのでよかったらご参照ください。
「放射線について考えよう」第1章:原子と原子核の中身について考えよう
つまり目の前にある「机」があって、私たちはその境界をはっきり認識できる。しかし机をよく見ると、それを構成する原子の中身は実は一つ一つ「空洞」であって、原子の周りを電子が回っているに過ぎない。つまりそこにはただ電子の動きがあるだけで、本来机の境界は「存在しない」のだ。言ってしまえば机すら存在しない。
物と物の境界線は本当は「無く」、しかし私たちはそれを「有るもの」と錯覚している。
ここで言っているのは、先に述べた「円周率」と「0と1」の話と同じだと私は感じます。つまり、どこにも「境界」や「接点」などないのに、私たちはそれを「ある」と錯覚しているということ。
お分かりでしょうか。月夜見先生はこれらのことを用いて「この世は『空(くう) 』である」と言っている。
「無」でもないし「有」でもない、という意味がなんとなく分かった気がした。
私達の脳は
その誤差を
上手に修正して
この世界を私達に認識させています。
なんてデタラメな
世界でしょう。ブログ:月夜見(ツクヨミ)-円周率より
本当に私達は
同じ空間に
存在しているのでしょうか。
他者と自己との
接点は、
本当にあるのでしょうか。ブログ:月夜見(ツクヨミ)-円周率より
原子の世界で考えると、たとえば私たちがだれかに触れるとき、本当は「触れていない」のかもしれませんね。だれもが、あらゆる物質が、本当はその個体に「境界線」など持たないのだから。そう思うと不思議じゃないですか?私はここに「いる」のにー。
…言葉足らずな気もしますが、以上が「空(くう)」について私ができる精一杯の説明です。
円は閉じられているはずなのになぜ円周率は割り切れないのか。
0と1は接していないのになぜ0は1になるのか。
原子の中身は空洞なのに、なぜ物は「在る」のか。
すべて同じことを言っているのが分かりますね。
ここまで述べたことを月夜見先生はぜんぶこの短い詩の中で言っています。ぜひ読んでみてください。(▶︎月夜見(ツクヨミ)-円周率)
◼️じゃー「ゲンジツ」ってないの?
さて。月夜見先生から学んだ「空(くう)」についての考察はひとまず終わりにして、ここで浮かんでくる疑問は、「この世は空であるけれど私たちは『現実』を無いものとできるか?」ということ。
この世は空である。それは真理かもしれない。私たちはいつも「錯覚」の中で生きているのかもしれない。しかし、その錯覚の中で生きているからこそ、目の前に物があり生活があり、私たちが確かに「存在していること」は否定できませんよね。そりゃ、この世にはなんにもないんだよ、と言えたらいろんなことが楽になります。わたしが見えてるもの、これすなわち錯覚なり、ぜんぶ気のせいなり。と開き直れたら、どんなに楽になるでしょう。
でもそんなこと言ったって、やっぱり指を針で刺したら痛いし、人に嫌なことを言われたら嫌じゃないですか。どうやってもお腹は空くし、美味しいものを食べたらやっぱり「うれしい」じゃないですか。それを「無いこと」とはできないじゃないですか。そう。私たちは現実に存在していることを否定することは、たぶんできない。かなしいけど。
私が去年の冬に描いたこの漫画には、そのことを葛藤する女の子が出てきます。
私たちはほんとは「無い」のに、現に目の前に「あなた」がいることは悲しいね、この世にはほんとは何もないのに、こうして確かに心が動くのはさみしいことだね、という話です。スゴく浅いところでゴチャゴチャ言っていますが笑
(漫画より言葉で説明する方が分かりやすいというのは我ながら情けないことだなぁ。)
まあ、空虚と現実の差に苦しむことはごくありふれた悩みだとして、私がイマイチ分からないのは、私たちはその「空虚」と「現実」のどちらに依って生きていけばいいのー?ということ。あなたはどう思いますか?
「現実」と「空虚」を同時に受け入れることは難しい。だってこの世が「空」であると理解したところで、次の瞬間待っているのはいつだって現実の「くそくだらない」現象じゃないですか。そしてそれと戦っていくのは「空」ではなく、紛れもない、境界を有し肉体であるところの「自分」じゃないですか。お勝手口のドアが壊れただの毛布を洗わなきゃいけないだの、洗面所が汚いだのゴミ出しは火曜日だの。ね。
だからやっぱり生きているうちは「現実」を否応なしに受け入れていくしかない。それが好きでも嫌いでも。それが虚しいよね。錯覚だと分かりつつも、その境界線を「あるもの」として扱うしかない。たとえば道の向こうからトラックが向かってきたとき「いや大丈夫、あれが輪郭を持ち質量を有しているかのように見えるのは、ぜんぶ気のせいなのだよ」とか言ってたら轢かれちゃう。現実的に。
いいんだー。次にわたしが知りたいのは、じゃあ「現実」は何のためにあるんだろう?ということ。
・・・
ははは、分かんない!現実だの空虚だの。これについて言うのにはもっと時間が必要だと思う、し、別に答えは必要ないと思う。現に私はストーブの前でチョコ食べてコーヒー飲んでるけどこれだけで幸せ!それでいいじゃないかという気もしてくる。あーわかんない。なにもわからないなぁ。わかるひと、コメント欄にお願いします。
まあ、ゴチャゴチャ言ってないで、「いま、ここに在れ」ということかな。これは昔から色んな伝道師が言ってきたこと。でも「いま、ここに在る」ときの身体や心は「空(くう)」にあるの?「現実」にあるの?とか考え始めちゃって、いよいよわけが分からない。てゆーか、「心」は「現実」に存在し得るの?はーー、わっかんないなぁ。
…まっ、いいや!
これぞ「いま、ここ」を生きている生命の輝き。カッケェ。
はじめまして。25歳社会人女性です。
現実は何のためにあるのか?
はっきり分かりますよ^_^
このブログに惹かれるものがあり、
何となーく見ていてこの記事に辿り着きました。
りなさん、はじめまして。
おっと、これはこれは。惹かれるものがあったのなら嬉しいです。ありがとうございます。ぜひ色々見ていってください!
考え方や、絵や、世界観などが好きです。
人生について深く考えていらっしゃるのですね!
私は、幼い時から宇宙の外側がどうなっているのか考えて眠れなくなって、という感じで。笑
似ているものを感じましたので連絡しました。
(このブログに来たのは、WWOOFerについて検索してヒットしたからです)
一度お話ししてみたいです^_^