荒野に立って服を脱げ

 

 

ふだん、すれ違う人の数より、すれ違う車の数の方が多いのはまじで狂ってると思う。

 

これはいつもの「車への怨み節」を言いたいんじゃなくて、私たち、本当はめちゃくちゃ多くの人と共生しているという話。で、それが目に見えていないという話。

 

 

これは私の地元松本市のイオンモールの屋上からの眺め。注目してほしい、この窓の数!そりゃ全部の部屋に人が住居してるわけじゃないとは思うけど、それを考慮したって、見えている限りでほぼこの数に等しく「人の生活」があると思うとぞっとするよ。え、これ全部すか、やっばぁ。

 

 

 

ここにも

 

 

 

ここにも

 

 

 

 

ここにも

 

 

人間がいて生活がある。しかし私はそれを見えていない。第一、私は普通に暮らしていて一日に触れ合う人間の数というのは多くて20くらい?道ですれ違う人の数にしたって、100いかないくらい。でも、見渡してみればこれだけの数の人間がいるんだぜ!!!すごいよな!!!(だれキャラ?)

 

 

◼️

以前、帰宅途中に目の前で事故に遭遇したことがある。1台目の車がガードレールにぶつかって、はずみで後ろの車も玉突きみたいにぶつかっちゃったという事故。ほんの30m目の前でそれが起こったことにもびっくりしたのだけど、もっと驚いたのは、近隣住宅からゾロゾロと出てきた、野次馬の人の数である!!

 

 

ゾロゾロ、ゾロゾロ。

 

 

次々と家の中から人が出てきた。普段通っている道で、どういう家が立ち並んでいるかは知ってたけど、そこに具体的に「人が住んでいる」ってことは意識したことがなかった。だってみんないつも、「っしーーーーーーーん」としていたんだもん。あたかも「ここには家があります、それ以上のことはないですよ、これは家です。家です。」としか言ってないように静かに立ち並んでいたんだもん。だからびっくりしてしまった、そこからゾロゾロと人が出てきたことに。

 

「ああ、見えていないんだな、いつも」と思った。

 

 

個々の体温。朝昼晩とものを食べて排出して生きているものだという感触。同じ川の水や下水道を共有している共生市民だということ。まんまとそれらをすべて無いもののように思わされていた。

 

 

さてそんなわけで私がすれ違う車の数にゾッとしてしまうのは、私たちにはそれが「車」に見えていて「人」には見えていないってこと。匿名性、というか、車に乗っている限りそれが一つ一つ、同じ町に暮らしている、生きて血の通った人間なんだという感覚は起こらない。同じく、建物の中に入っていてもおんなじだ。これだけ多くの身体があって体温があって生活があって食事があるのに、それらのほとんどが私たちには目に見えない。

 

 

うーーーーーーわ。

 

 

 

 

イオンモールの屋上からそんな景色を眺めながら、昨日は妹フミちゃんとLINE通話していた。

 

 

私「しっかしなんだこの車の多さは。この車の数だけちゃんと人間がいると思うとすごい不思議な感じ。」

 

フミ「わかる。どんだけ人いるんだよって思うよね。」

 

私「これ建物とか車ん中に人がいるから見えてないだけでさ、いま仮に、建物がぜーーーんぶなぎ倒されて、車ぜーーーんぶ没収されて、この松本平が更地になったとするじゃん?そしたら人間が全員荒野にぼーっと立ってる状況になるんだけど、そうなって初めて異常さが分かるだろうね。『いやいや、人多すぎっ!!』って。」

 

フミ「うん。『あ、これ人多すぎですね。人減らしましょうか。多すぎ多すぎ』ってなりそう。」

 

私「そう。たぶん多すぎるんだよ。見えてないだけで。なんでこんなに見えてないんだ。」

 

私「逆にさぁ、ここが荒野になったら街コンとか出会い系とかいらなくなりそうだよね。全員可視化されてるから。『あ、タイプの子みっけ』って言って、すぐ交流はじまるじゃん」

 

フミ「ああー、なるほど。出会いの場がそこら中にあるんだね」

 

私「うん。…分かった!出会いがない、出会いがない、って今の社会問題は、たぶんみんな引きこもってるから起きるんだね。いつも車の中にいて建物の中にいるから、そりゃ出会わないし見えないんだよ。そこがいけない。」

 

フミ「うん、出会いがないと言ってる若者、ぜんいん広場に出ろ!!って話だね」

 

私「そう、広場。広場はすごい。それか更地になれば話は早い。そうなったらいっそみんな服脱いで蓑とか毛皮かぶってればいい。」

 

フミ「なんでそんなふうに飛躍するの (笑)マンモスの時代かよ」

 

 

 

『わたしたち、よく考えたら人生、屋外に出てる時間より建物の中にいる時間の方が多いよな!』と気付いたことがあって、改めて思う、やっぱりそんなのって間違ってる。家というのは本来、寝るためと食糧貯蔵するためにできたものなのに、今やみんな常時建物の中にいて、車運転して、「しーーーーーーん」としちゃってさ、どこから運ばれてきたか分かんない食べ物食べて、どこに行くか分からない下水に流してさ、なんかばかみたい。

 

 

 

あーあ、私たちには見えていないものだらけで、棚に上げているものばかりでつらいつらいつらいつらい。なんか急にえーーーーーん(泣)って泣きたくなっちゃったという話。こんなに天気の良い日曜日だというのに私の心はなんでどことなく荒んでいるのでしょう。そういえば私には心に引っかかって気になっていることがいくつもあってもやもやする。この町にはどんな人が住んでるの、とか、私たちはほんとに生きてんの、とか。

 

 

というつぶやきでした。おわり

 

 

 

 

 

4件のコメント

目に見えていないことが多すぎてモヤモヤする気持ちすごく分かります。
こんなに物で溢れているのに身近なことは何一つ知らないまま(それか知らないフリ)で、家と会社を車や電車で行ったり来たり。みんな現実を生きてなくて、何か幻想の中で生きているような気になってきます。
ふとこういうことを考えると、どうしようもなくてなんだか虚しい気持ちになっちゃいますよね。

ここさん、こんにちは。
そうなんですよ、目に見えないものばかりなんです。こんなに目が見えてるのに見えないものばかりだから、むしろ現実だと思ってるものってぜんぶ嘘だらけなんじゃないかとか思えてきます。共感していただけて嬉しいですね(^^)

4月の安曇野は、それまで寂しい景色だった田畑に人が突然姿を表します。
まず、じいばあが鍬やミニ耕運機と共に家庭菜園に出現し、次にトラクターが忙しく田んぼに入っていく。隣の農地を耕作する人と、農繁期だけ近所のおじさんと話すような感覚で話ができ、ピカピカで大きくカッコいいトラクターに乗る人が、すれ違い様にどこか得意げな顔で会釈してくる。対して僕は中古の小さな小さなトラクターから倍くらい得意げな顔を返す。

人間も、冬眠から覚めた生物感を感じる春が好き。

もっともっと多くの人が田畑で活動していたら、もっと春が好きになるだろうな〜。

カツヤさん、お久しぶりです^ ^ 素敵なコメントありがとうございます。松川だと、そうかつての日本?の姿に近いのかもしれませんね。春になると人間も起き出すものなんですね。面白いです。

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