主人公がリレー方式で入れ替わっていく、短編連作を始めた。
私の大好きな漫画家・岡崎京子さんの短編集『CARTOON』の形式をほぼ真似したものだ。2話目となった「不機嫌なれんげちゃん」はなんと構成から仕上げまで4日で完成し、こんなにスムーズに書き上げたのは初めての経験だった!4日で6ページが描けるということは、頑張れば1ヶ月で48p近く描けるということ!!…には残念ながらならないのである。
さて先日、本作「不機嫌なれんげちゃん」について編集者さんからコメントが届いた。
一度は思うのであろう、「自分とはなんなのだろうか?」という問いに対してれんげちゃんというキャラクターらしい思考で描かれていました。 付き合っている人との関係について違和感を感じ、家族との食事、日常の中でもその問いへの答えが見つからないモヤモヤとした感情が伝わってきて最後まで魅入ってしまいました。 れんげちゃんが思っている思いや悩みなどは多くの読者にも共感できるところがあると思うので、この先にどうやって彼女は解決していくのかという続きのストーリーが読みたいと思わせる作品でした。 次回作も楽しみにしております。
え?れんげちゃんって、“付き合ってる人との関係”に悩んでたのか?と思った(笑)
「そっか、私が見ているれんげちゃんと、この人の見ているれんげちゃんは違うんだ。」
…いや、いいのかそれで?漫画は、作者に伝えたいことがあって、それを上手く伝えることが、優れた漫画なんじゃないのか?だとしたら、私が感じてないことを読んだ人が感じてしまうのは、、つまり私の技量がそういうことだというものか…。
付き合っている人との関係について違和感を感じ、家族との食事、日常の中でもその問いへの答えが見つからないモヤモヤとした感情
言っておくと、“私にとっての”れんげんちゃんは、そんなのに悩んではいない。
れんげちゃんは、先輩との関係はとことん「どーでもいい」し、このモヤモヤを解決したいとは思ってないし、それについて真剣には悩んでなんかいない。強いて言って、れんげちゃんが解決つまり「本当の愛を見つける」としても、彼女は別に男女の関係の間にはそれを見つけないと思う。れんげちゃんは、いろんな欲望・感情を持て余してる体に「きもちわるいなぁ」と感じているだけだからである。そしてこれは別に「悩み」ではない。れんげちゃんには、見つけたい何かや、克服したい何かがあるわけではない。
こうやって、自分が描いた漫画について説明するなんて、そんな下品なことはないけど(笑)まあいいや。
この先にどうやって彼女は解決していくのかという続きのストーリーが読みたいと思わせる作品でした
ということで、れんげちゃんは残念ながら解決なんてしない(笑)というのが私の思うところであるが、まあたぶん物語は手放した瞬間に読者のものになるから、いいのだ別に。
それにしても…
解決、かぁ。
そういえば前にも、別の漫画で別の編集者さんに似たようなことを言われたことがある。
次はドラマ作りに挑んだものを見てみたいです。たとえば本作のアオちゃんが物理的思考法では切り抜けられない大ピンチに陥ったとしたら、それはどんなもので、どう乗り越えるのか……
人は、物語は、何かを「解決」しなければいけないらしい。ピンチを「乗り越え」なければいけないらしい。
……うーーーーーん!!!!
これにはれんげちゃんも困ってしまう。
「解決」、かぁ。「ピンチ」、かぁ。乗り越える、かぁ。
うーーーーーーん、である。
そもそも「物語」とはなにか?
↑(笑)
いまだにここでつまずいている。
いろんなサイトを見るに、物語とは、物語の前後でキャラクターの考え・価値観が変わるさまを描くことが大切らしい。そのために「困難」や「葛藤」「壁」が必要らしい。読者は、キャラクターが「努力」したり「がんばって壁を乗り越える」様子を見たいらしい。
ふーむ。
「物語とは?」と考えて、定型として目指すべきなのはディズニー映画に見られるあの感じだと解釈している。個人的にこれをディズニー文法と読んでいる。
ディズニー文法では、起・承・転・結が分かりやすい。たとえば映画『アナと雪の女王』で見ると
①起・アナとエルサが城に住んでる。
②承・エルサ引きこもりやめ、城を脱出。
③転・アナとエルサ対峙。
④結・二人は真実の愛を見つける。
文字通り、見事なまでの「起承転結」である。ディズニー映画で困難に見舞われない主人公を見たことがない。彼らは必ず序盤で「夢」を語り、中盤で必ず「ピンチ」な場面がやってきて、それを「克服」「解決」「勝利」して、めでたしめでたしとなる。これが完璧な物語であることは分かる。いいですよ。でも、、何度も言うけど、
私たちにとっての「困難」とは何ですか?
ディズニー映画はいい。主人公には必ず「夢」があって、目に見える「悪」がいて、それを倒す能力なり魔法なり剣なりがある。
でも現実を生きるド平凡な人間である私に、目に見える「敵」はいないし、命に関わる「ピンチ」なんて滅多に訪れない。私たちの周りには案外「いい奴ばっか」だし(笑)、そうそう簡単に崖から落ちそうにもならないのである。
仮に私たちが困難を乗り越えるとしたらそれは映画のように剣や魔法で「えいやっ」とやるものではない。じわじわじわじわ、乗り越えるものだと思う。だってそうでしょう?たとえば受験戦争に勝つときだって、その勝敗は「合格発表の掲示板を見るとき」その瞬間に決まるものじゃなくて、本質的には、夕飯後の「あー勉強めんどくさいな。サボりたいな。いや、がんばるんだ…!」と決意して勉強机に座る瞬間に決まる。その瞬間の積み重ねこそが「勝負」であるんだから、見ての通り、その勝敗はじわじわじわじわ、決まるものである。こんな絵面を映画にしてもなァ…である。
だから「困難を乗り越えさせろ!」「問題を解決させろ!」「ドラマを!」といわれてもピンとこない。。何度も言うが私たちにとっての「困難」や「解決」は、ディズニー映画のような劇的なものではないからである。じわじわ、じわじわ、、なのである。ときにそれは形はなく、自覚もしないうちに忍び寄るものでもある。世界に対して私の抱えているモヤモヤ、あなたの感じている違和感って、それは正体が分からないし、そもそも努力の方法だってよく分かんないことが多いじゃないですか。
じわじわじわじわ。。迫り来るのですよ、私の「苦悩」は、「困難」は。。(笑)
それを32ページとかで「解決」させろと言われても、私の今の技量じゃむりだ。
あーーーもう!!頭がショートしそう。てゆーか物語とはこんなふうにウンウン唸りながら作るものではないと思う(笑)困難って何さ!!解決って何さ!!…私は物語の基本形すらまだ身についていないから、今日もうんうん唸るしかない。
まあこれは私にとっての「困難」ですけどね(笑)皮肉なことに。
ちなみに、物語が分からない私が「完璧な物語」といって思い付くのは、昔のディズニー映画『The Small One(ロバと少年)』です。
少年が貧しさゆえに親友のロバ「スモールワン」を売らなきゃいけないという話。少年はロバのことを愛してて、ロバも少年のことを愛してて、あの物語は最初からずぅっと悲しくて、最後まで、悲しいだけであった。でもなぜか、「完璧な物語」と言われて私はまずこれが思い付く。このビデオを見て幼い頃の私は、テレビの前で、一人でボロボロ泣いていたそう。
画像出典:▶︎
10年以上ぶりに観直して、26歳の私も引くほどボロ泣きしてしまった…。ここ半年でいちばん泣いた(笑)
「物語」、かぁ。
…
とか言ってたらこの記事を母が読んだらしく、こんなメッセージが届いた。
祖母の家で私がこのビデオを繰り返し見過ぎて、祖母たちはうんざりしてたらしいww
7月はリアルでお世話になりました。
ブログへのコメントはお初でドキドキもんでございます。
どこぞの小説家がいつかどこかで
「センター試験国語の題材に自分の作品が使われた。ーーの部分において著者はナニを言わんとしているか選択せよといった内容の設問があった。自分は正答を見つけられなかった」だったか「作者なのに、不正解だった」とか言っておりました。
それを思い起こさせるエピソードですね!!
純文学の小説には起承転結が破綻してる物語がけっこうあるように感じています。
やまなしおちなしいみなし、、、って別なジャンルやないかーい!って程に。
だから起承転結さえまともに組み立てられない者でも一見書けそうに思えてしまうので競技人口多めです。
物凄く考え抜いて悟りの境地に至ってこそ出来上がるシロモノなのか、はたまた書いている御仁は素で筆まかせに書いてるだけの思いつきなのか。。。
わからん、です。
現代アート界のの鬼才?といわれる会田誠氏が若かりしころ「なーんにも考えてませんっ」というタイトルだったか、
おふざけのつもりで
怪人みたいなキャラが和式トイレにまたがってう○こしてる絵をちゃちゃっと書きなぐったらン十万だかン百万だかで売れてしまった、、、
というエピソードを語っておりました。
やっぱりわからん、です。
お久しぶりです^ ^ コメントありがとうございます!わからん、ですねぇ笑 音楽・小説・映画にもやっぱりちゃんとした文法ってのはあって、それは人の心を動かすリズム、メカニズム…結局私は基本を無視したままで書いてみても、漫画を出版社に投稿して「なにが言いたいのか分からない」と言われてしまうわけです笑 王道ストーリーには心動かされないこともありませんが、私が大好きなアニメ「アドベンチャータイム」はどの話を取っても起・承・転・転・転・転…みたいな展開で笑、しかしあの奇妙さ、訳のわからなさ(加えて情景の美しさ)に惹かれてしまったりするので、真に人の心を動かす要因は分かりません。しかし「物語」、勉強していきたいです!