ノーモア・ラブストーリー!!映画「君の名は。」に垣間見える恋愛至上主義に反論!

遅ればせながら、2016年公開の映画「君の名は。」の感想を。

ご存知、大ヒット映画。すごい映画ですよね。

映像も、音楽も、透き通ってて、心に染み入るよう。

RADWIMPS」による挿入歌、主題歌も映画の世界観をそのまんま歌にしたようで、まさに「言葉と、映像と音楽」とが一体になって物語を紡ぎ出している・・・

映画を見ているというより、「104分が最大限表現し得る一つの物語を見ている」ようでした。

しかし

見終わった後にの私の心には、原因不明の「モヤッ」が残っていました。

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な・なんで・・・?

そのモヤの正体は何なのか。その場ですぐに説明できるものではありませんでした。

時間が必要だ。

この映画の感想を言葉にするのには、時間が必要だ。

というわけで、公開から3年近くも経った今、ようやく考えがまとまっているのに気が付いたので、今日この記事を書いています。

◉【以下ネタバレ!まだ映画を観ていない人は、ご注意を。】

簡単に、映画のストーリーをさらいます。

主人公は東京に住むある男子学生、瀧(タキ)と、田舎町に住む三葉(ミツハ)。

彼らはある日を境に、時間も空間も超えての入れ替わりが起こるようになります。

お互い、みす知らずの人物。会ったことはないけれど、徐々に惹かれ合っていく。

しかし、ある日ぱったり入れ替わりが起きなくなった・・・。

この原因を辿っていった瀧は、数年前に起きていた隕石の落下事故により三葉の身に何か起きたのだと悟る。

瀧は、三葉を救うため、時間を超えて彼女に会いにいく。

会いたいけれども会えない。君の名が、分かるようで分からない。

けれど確実に憶えている、君のこと、確実に求めている。

時を超えても会いに行きたい。時を超えてでも君のことを救いたい。君の名は分からないけれど・・・

そんな、儚い、掴みどころのない「愛」の心模様が描かれています。

そしてこの映画は、三葉が神社を守る家系に育ったという設定もあり、日本文化を再考察する場面が投げかけられている気がします。

クライマックスで2人が会うのも、宮水神社の御神体である窪地です。

伝統文化の一つである「組紐」も、2人の入れ替わる重要なヒントを握っています。

「この映画は単なる青春物語じゃない。

監督は、もっと普遍的な、私たち日本人という民族のルーツや、生命の根源みたいなものから、その延長の時間軸に生きる、今の私たちについて描きたかったんだ。」

私はそう感じました。

地震に始まる様々な災害、社会の圧迫感と、早すぎるテクノロジーの進化・・・。

様々な不安要素を含むこの時代に、新海誠監督はこの映画を通し

「繋がっている。私たちは、その『誰か』と、時や場所を超えても、そしてあなたが誰だか分からなくても、求め合っている。」

そういう漠然としていながら、まるで魂にインプットされているような、スケールの大きい「愛」について語っているような気がしました。

そんな2人が奇跡のように出会えたある瞬間があって、それは瞬く間に消えてしまって、それでも君に伝えたかったこと・・・

瀧が三葉の手のひらに書いたのは、

「好きだ」

・・・・

ああ。そうか。

うん、君のことが好き。だから会いたい。分かる。だから、「好きだ。」

・・・・・・・

そしてラストに2人は現実世界で再会し、ハッピーエンド。

あれっ!?これって単なるボーイミーツガールの物語だったの??!!

モヤモヤの原因はここでした。

新海誠さんの描くあの空、もうあれが完成された、言葉はいらないひとつの世界の美しさであり、かつ日本文化を描くことから、私たちの命の根源まで問いかけているようなあの映画に、私は確実に、単なる「恋愛」とは違う種類の「愛」を感じていました。

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それは地球に対する愛であり、夜空に対する愛であり、それはこの時代に、この場所に生きていることに対しての愛であり喜びであり・・・

そういうものを確実に含んだ映画であると感じました。

そういうものの着地点がありふれたラブであった(ように感じてしまうような結末であった)ことに、

モヤッとしたのです。

ここで私が問いかけたいのは、

物語にとって、恋愛的なラブが最上の美しさか。果たして。

ということ。

気づけば、巷にはラブストーリーがあまりにも溢れていると思いませんか?

アニメ映画の王道、ディ○ニー映画の大半も、プリンセスがいてプリンスがいる。

日本の少女漫画はいうまでもなくラブに溢れているし、戦闘系の少年漫画にさえ必ず「ヒロイン」がいますよね。

「男」と「女」がいて、物語は、どきどき。

ラブソングも世間に溢れてる。

「♫あなたに会いたくて・・・」

「♫ずっとそばにいるよ・・・」

「♫ただ君だけを・・・」

J-popの大半がラブソングだといってもいいのではないでしょうか?

そう、あまりにもラブが溢れかえっている。

ラブストーリーは美しいです。どきどきして。男と女がいて、物語が動き出す。わかります。どきどき。

でも、異性に対する愛、つまり「恋愛」という形で感じるそれは、

全ての感情を凌駕し得る、至上最高の感情でしょうか?

例えば、失恋した後、「どうしてあんなに彼(彼女)に夢中だったのかな?」「どうかしてたんじゃないかな?」って思ったことはありませんか?

これは全くその通り、恋愛は一種の脳の錯覚とも言われ、そのメカニズムは科学的にも証明されています。

(ちなみに、私がこのことを知ったのは、イギリスのコメディアニメ『おかしなガムボール』より・・・( ̄▽ ̄;))

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Episode.172『The Love』より「愛とは全て化学である」

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(出典がアホらしくてごめんなさい・・・でもこのアニメ、シュールでとっても好き・・・笑)

一応、図書館に行ってきちんとした出典調べました。

身も蓋もない言い方だが、「恋に落ちる」というのは、脳内の報酬系にスイッチが入ることで、「この人しかいない」という気持ちが芽生え、一人の人に夢中になること。そうした、脳内の神経ネットワークが働く一連のプロセスなのだ。

報酬系とは、喉の渇きや空腹など、生物が生き延びるために必要な機能であり、この報酬系にとって極めて大事な働きをしているのが、快楽をもたらす神経伝達物質ドーパミン(ホルモンの一種)だ。

つまり、ドーパミン報酬系の燃料であり、恋の燃料なのだ。

          ー 奧村康一らNHKスペシャル取材班(2009)『だから、男と女はすれ違う』より(一部略)

だから、「恋愛」に感じる「愛」って、永遠のようで、普遍的な美しさのように感じられて、

でも・・・それって・・・

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って私は思ったり、、、するんですが、いかかでしょうか・・・(小声)

そこで、「君の名は。」に戻ります。

あの映画に表されていた「愛」は、ホルモンの助けがあってこその、あんなに美しい愛であっただろうか?

(言い方・・・笑)

きっと違う。私はあの映画から、それとは違うものを確実に受け取った。

しかし瀧が三葉に送った言葉は、「好きだ。」そして2人は結ばれた。

うーん。

このモヤモヤ感はなんだろう。単直に表すと、

「入れ替わったのが男と女でしかこの物語は成立し得なかったのか?」

ということ。

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(恋愛には性別を超えた色んな形がありますが、ここではあくまで「瀧くんの立場」で考えると、)

瀧くんと入れ替わったのが、三葉じゃなく、例えば勅使川原くん(三葉の友人)だったら?

彼はここまでの情熱で彼を求め、会いに行っただろうか・・・?(笑)

そうじゃなかったら、瀧くんは三葉だったから、ここまでの情熱に駆り立てられた。

だとしたら、

この物語を動かす「愛」の起点は、結局のところ「恋愛」の「ラブ」だったのかな?

そこが、私のモヤモヤ点。

恋愛を否定する気は全くありません。

でも、「ラブ」つまり「愛」は必ずしも「恋愛」と同義ではなく、他にもいろんな種類があると思うんです。

家族に対する愛、地球に対する愛、命に対する愛に、自分に対する愛・・・。

「恋愛」はあくまで、そのうちの一つでしかないと思うのですが、どうでしょう?

世の中には様々なストーリーがあります。

様々な感情で描かれていたはずのストーリーたちが

結局は全て「恋愛の物語」に収束され得るものであり、それが最も美しい愛の在り方だとしてしまったら

それって私たち、これまで多彩な人間の感情や人生模様にとって、あまりにも表現が乏しくありません?

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だからこそ、私はあの場面で瀧くんに「好きだ」とは言って欲しくなかった。

(ただの個人的な意見のようにも思いますが・・・)

だって、ラブストーリーはもう巷(ちまた)に溢れかえっているのだもの!

これは私の大好きな動画。

新海誠監督が、作家の川上未映子さんを招いての対談。

話は、両者の作品づくりの根源がどこにあるか、という話になります。

監督にとっての“イノセンス”(純真さ)は、いつのどの景色?の質問に対し、新海監督はこう答えました。

12〜13歳のころの、寒い場所で育っていた時のこと。寒さとその中で見る星の瞬き。よりギラギラ見えて、その届かないギラギラが世界の本当の姿であり、片思いをしている相手であり・・・。あの時に一番大切なものを受け取って、それを作品の中にどう映そうかというのを思っている。

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(画像:Youtube:アニメ映画『君の名は。』心をつかむ 新海誠監督インタビュー 16.09.15)

ここから、新海誠さんの描きたい世界の根源が、必ずしも恋愛感情のみから来ているものではないと感じられます。

監督の真に伝えたいメッセージと、物語に感じられた恋愛色とのギャップが、私が映画を見た後に残った違和感であったのかもしれません。

新海誠監督の描く世界はすごく素敵で、私も、違和感はあると言いつつこの映画は大大大好き。

すごく遠くて、きらめいた、世界の本当の姿を、私は確実に受け取った。

だからこそ、大好きなこの映画だからこそ、「ラブストーリー」として簡単にくくらないでほしい。

着地点はそこじゃない。

それだけのことなんですけど・・・笑

私は声を大にして言おう、ノーモア・単なるラブストーリー!

愛の間口はもっとたくさんあるはずだよ。

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