宮沢賢治のこんなエピソードがあります。
賢治は、「春になって蛙は冬眠から覚め、蛙のいる穴にステッキを突き刺せば、穴から冷たい水晶いろの空気がでる」という詩を知人から見せられ、
「それは性欲ですよ、実にいい。はっきり表徴された、性欲ですな」と言っていたそうです。
ー『集中講義 宮沢賢治〜ほんとうの幸いを生きる〜』(NHK出版)より
これを読んだとき、脳天に稲妻が走ってしまいました(笑)
性欲について考える。
性欲というと何か恥ずべきもの、背徳感があるものと考えがちです。それは一概に、性欲=肉体的な欲であり、理性と言った人間が「高尚」としているものと反対の位置にあると考えられているからではないかと思います。
でもそもそも人間の3大欲求として食欲・睡眠欲・性欲とあって、これってぜんぶ「肉体的」なものじゃん!!じゃあなんで性欲だけ恥ずかしいんでしょー?
うーん性欲とは何か。
生物的に考えるならば性欲とは「子孫を残す欲求」?
では性的嗜好について考えてみましょう。そもそも世間一般的に性的な対象というのは「異性」だけではない、ですよね、(それらを歪んだ性欲だと片付けるのは好きじゃないです、乱暴すぎるんで)、つまり性欲は必ずしも子孫を残すためではない。
すると性欲とは何?たとえばとっても幼い子どもに触れたとき、また、小さい動物を見たときに、その溢れる「命」の新鮮さに、ああ、かわいいな、美しいな、尊いな、と思うことがあると思いますが、これもある意味、性欲なんじゃないでしょうか?そしたら色んな性的嗜好も説明がつくところがあるのではないかと。
「あ、いいね。みんな生きてるんだね。生きているっていいね。」って、それが性欲なのでは?なんだかお花畑みたい。
つまり性欲とは「命」に対する「萌え」なのだ、と私は個人的に解釈しています。
さて性欲が「命」つまり「生きること」に対する欲に限るかというと私はそうは思いません。
「生」と「死」は同じ衝動である、ということをいつもなんとなく感じています。
オーガズムは「小さな死」だと表現したのは誰だっけ?たしかアメリカのサイコアニメ『ミッドナイト・ゴスペル』で観た。
死は自己からの解脱だと。世界と一体になること。そしてオーガズムの瞬間には自己の輪郭がぼやけ、それは死の感覚に非常に近いと。

(とにかくこれはすごいアニメです。)
性欲とは「生まれ」「死ぬこと」の欲である。
そう思えば村上春樹が小説の中でしつこいほどに性的シーンを描くのも分かる。性的体験が「生」や「死」に対する執着、つまり「人間が生きるということ」と密接に関わっているから、描かざるを得ないのだ。エロ小説家だと言われようと、官能小説だと言われようと、そこを通ることでしか行けない、精神的な境地がある。
では性行為そのものが必ずしも美しいもので、そこからしか得られないものがあるかというと、そうは言い切れないと思います。ここで宮沢賢治の話に戻ると、彼が生涯童貞でいたことは有名な話。法華経に傾倒した彼は、非常に禁欲的な生涯を送っていました。(どうしても性欲を鎮めたいときは、ひとりひたすらに山を歩いたのだとか…!)
そんな彼は、何からあんなに美しいものを受け取っていたのだろう?
「春になって蛙は冬眠から覚め、蛙のいる穴にステッキを突き刺せば、穴から冷たい水晶いろの空気がでる」
「それは性欲ですよ。」
そう、たぶん、性欲とはすなわち「命への衝動」であり、これに呼応する本能なのだ。
・・・と、ここまでつらつらと性欲について思うことを書いてきたのですが、私は個人的に性について語るにはあまりにも離れたところで生きてきた性(タチ)の人間ですので、ここに書いてあることはまことに見当違いな妄想だと思っておいてください。
でも、その行為はともかくとして、性欲それ自体は決して醜いものだとは思えないところがあるんです。美しい絵画とか、美しい音楽、人間みな各々が命の衝動を感じる、一瞬ここではない境地に連れて行ってくれるあれらは、性欲でなかったら、なんなんだろう…。
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